ライオンくん
こんにちは。
冬晴れです!そんな言葉があるか知りませんが、そんな気持ちのいい天気です。
今朝のランはスピード練習しました。
ライオンくんは今日も光ってます。
このライオンくんの休憩椅子で何度もブログ書いてます。
昼から試写を一本観て、その後は歌詞作りに専念します。
合間に読む本も持ち歩きます。
最近は村上春樹さんの翻訳ものを片っ端から読破してます。
何故かというと知りたいのです、あることが。
彼の著書を読んでいると、その殆どの主人公に彼自身が見えます。『海辺のカフカ』なんて主人公は少年だけど、村上さんの姿が浮かんでしまいます。
でも作家というのは決して自分を書いてはいないです。きっと全く違う人物を書いていても自然に投影してしまうのだと思います。
読者としては物語の主人公に作者の姿を見るのは当然で、それが魅力的なわけだし、そこに勝手に恋してファンになってしまうものです。
ならば翻訳はどうなんだろうと考えました。自作ではないもの、言語を変える役割を果たすときにどうなっているか知りたいです。
まだ全てを読んではいませんが、結果はめちゃくちゃ投影されているように感じました。
不思議です。主人公の中にフィッツジェラルドやカポーティが見えるのと同時に村上さんがいるんです。
非常に面白いことです。
私が曲を作るヒントにもなりました。
多分私は自己愛という甘いものが嫌いだし、なるべく他のモデルを作って物語を考えます。しかしそこには必ず私が存在して息づいているようです。
人間には様々な面があるので、殺人鬼や人格破綻者など突飛なものであっても、数%はその素質を持っているのだと思います。
他人を描いていたり、例えばカバー曲をやったりしても、表現すれば本人が出てくるものみたいです。
だから敢えて自分を突き詰めて描く必要もない気がしました。
自分しかできないもの、オンリーワンな表現を目指すのが偉いと言われますが、そんなものただの自己満足に感じます。
自分は勝手に出てきます。
表現っていうのはもっとナチュラルで、イノセントなものであるべきだと私は思うようになりました。