執行猶予
今日は携帯電話を忘れて出てしまった。
朝からスタジオセッション、移動して夕方から歌のレッスン。携帯電話がないと不便だ。「遅刻します」メールもできない。ブログも書けなかった。
私は腕時計を持ってない。アトピーなので肌にあまり物を装着したくないし、ブランドがどうのとかのアピールな気がして好きではないのだ。
だから時間を確認するのは駅やお店の時計か、携帯電話だ。でも最近はカフェや服屋さんは時計がない。コンビニや古い肉屋さんなどで時計を探す。今日も時計がなくて困った。通りすがりのひとの腕時計を盗み見て確認してた。
それにしても私はよく携帯電話を忘れる。決して故意ではないが、忘れて外出したことに気付くと、何故か心がスッと軽くなる。もちろん不便で困ることは困るのだけど。
よく忙しいひとが「携帯はスケジュールに追われる感じで嫌」というようなことを言う。そんなことを言ってみたいもんだと思う。性格のひねくれた私は「それって自慢?分刻みの仕事してるデキルひとってこと?」などと密かにつぶやいている。故に私は、携帯電話を忘れて気楽になるほど忙しいひとであること、を主張したいわけではない。
電話とかメールは私にとって、不幸を知らせるものという先入観があるのだ。うつ病だからかもしれない。電話が鳴る(音は嫌いなのでバイブにしかしてない)たびに、次は誰が事故?誰が死んだ?って感じになって心臓が止まりそうになる。苦手なのだ。
家で自室のドアを家族にノックされても一瞬不幸の予想をする。父が死んだときも、猫が死んだときも、おばあちゃんが危篤になったときも、ドアの外で不安そうな叫び声に呼ばれた。ドアの外に出るとき自分は引き受けなくちゃいけないんだと覚悟する。
携帯電話はそんな不幸を運んでくるものの象徴の気がするのだ。大抵はそんなことはなく、業務連絡だったり友達のお気楽メールなのに。
外出中に不幸なことが万が一起きたとしても、携帯電話を持ってなければオンタイムで知ることはない。あとで知って「ああ、携帯電話忘れたから誰々の死に目に会えなかった」と後悔する。でも今この瞬間に死ぬぞ、お前は責任取れ、と言われるような事態を体験せずに済む。甘い自分。私はとって携帯電話を忘れるのは執行猶予みたいなものだ。
写真は可愛い黒うさぎ、ピピちゃん。苦しいときも楽しいときも知っている。