グザヴィエ・ドランについて メルヴィル・プポー
- 2013年9月17日 09:19
カテゴリー: 映画
- 性同一性障害でありながら女を愛する男、という難しい役。最初はルイ・ガレルに決まっていたらしい。
ルイ・ガレルといえば巨匠フィリップ・ガレルの息子で、ベルト・ルッチの『ドリーマーズ』では姉と友人との変な三角関係をやったり、フィリップ・ガレルの『愛の残像』では捨てた女の幽霊に呪われたりしてた。アート系の知性的雰囲気を漂わせファッションブランドの広告にも出てくる。彼なら確かにグザヴィエ・ドランが使いたがるだろうと思った。
しかし何故か撮影15日前に降板になったそう。同時期の違う作品もルイ・ガレルが降板した話を聞いた。そういう時期だったのかもしれない。またはドランのはっきりした性格が巻き起こした何かなのかもしれない。
それでメルヴィル・プポーが主役のロランスをやることになった。元々脇役で呼ばれていたそうだ。でもこれは大正解。
メルヴィル・プポーといって思い出す作品、私は絶対、フランソワ・オゾンの『僕を葬る(おくる)』。ゲイの末期癌患者をやっていた。死ぬとわかってからの孤独な終活。恋人(男)との激しいセックスシーンは生々しくてグロかった。トイレで吐くとこも痩せ細っていく様子も凄かった。だが、メルヴィル・プポーは何をやっても美しい。汚さとは無縁の不思議なひと。
『わたしはロランス』を観るとロランス役はメルヴィル・プポー以外にありえないと思えてしまった。スザンヌ・クレマンとの会話では感情をあらわにし、マッチョな男と喧嘩もし、母親に泣きながら電話をする。シワの多くなった顔でボロボロな風情も隠さない。なのになんだ!このノーブルさは。
彼がどんなに低俗な台詞を喋ったとしても、そのシックな雰囲気は残るのだと思う
。ロランス・アリアの印象、と思い出すなら彼の薄く微笑んでいる顔が浮かぶ。女でも男でもなく超越した性。
この作品ではドラン本人がやらなくて本当によかったと思う。
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